織田信長は、気が長い。
かれほど、自らの国家理想(天下布武)にむかって実に根気つよく改革を押し進めた政治家はいない。日本史上、いや世界史上にも類例のない存在といっていい。
かれのことを、
「気が短い」
と評するむきもあるが、それはおそらくかれのもつ過激性の部分であろう。信長には確かに過激な面もあった。国家鎮護の霊場である比叡山延暦寺を焼き討ちし、多くの一向宗徒を殺戮した。だがそれも、かれの理想とする天下布武を実現するための手段に過ぎず、もし一向宗や延暦寺が世俗の権限を捨て政治的中立を保っていたなら、信長の対抗勢力とはならなかったであろう。
信長は父・信秀の跡目を継ぎ織田家の当主となった。
かれはまず、父が長年にわたりつくりあげたものを壊すことからはじめた。父が苦労して養ってきた古参の豪族たちを遠ざけ、銭で雇った兵により、あたらしい軍事機構を創ろうとした。日本で初めて生れた職業軍人主体の組織である。当時の軍人はみな農民兵であった。兵農分離が進み武士と農民がはっきりと区別されるのは、時代的にはもっと後年である。
それまでの農民兵主体の組織では、農繁期には戦争ができない。農民兵を動員する豪族たちに当主といえども媚びを売らねばならない。それに対し豪族連合に囚われない「銭で雇った兵」であれば、農繁期にとらわれることなく戦闘が行なえた。豪族たちに気兼ねすることなく、信長の命令一家、果敢敏速に兵を動かすことも可能であった。
のちに行なわれる桶狭間の戦いでも、武田の騎馬軍団を撃滅した長篠の戦いでも、この新組織が縦横の働きをしたのである。
しかし、最初からこの銭で雇った新組織が強兵であったわけではない。この改革を断行した当初、信長はことごとく負け戦を経験している。
改革に反対する古参の豪族たちからは、
「それみたことか、銭で雇った兵隊よりも、古くから織田家に仕える豪族連合の方が優れている。」
などと言われたに違いない。
でもかれは、抵抗に屈しなかった。今は弱小の「銭で雇った兵」が、必ず天下布武を成し遂げる「優れた軍団」になることを信じていた。現にそうなった。もし、改革の抵抗に屈していたら、かれの天下統一への道はなかったであろう。
かれは、壊すだけでなくあたらしい社会をつくろうとした。軍事制度以外では、主として経済政策が中心だった。
そのころ、中世の経済がながく停滞していた。
この時代、すでに一世紀以上にわたって農業生産高があがりつづけていたため、国民ひとりあたりの可処分所得も向上していた。可処分所得が増えれば消費が拡大するはずなのである。
が、中世の「座」では、それらの欲望をまかないきれなかった。
中世は、商工業から芸能にいたるまで座という特権的な協同組合ができていて、ときに独占権をもち、ひとびとが私的に油をしぼったり、売ったりすることをゆるさなかった。
信長は、これらをうちこわした。かれの領地が広がるにつれ、かれがめざす市場経済圏(楽市楽座)もひろがった。商品の値が安くなった上に、商品生産が商人によって刺激された。のちに来る安土桃山の文化は、このような商工業の繁栄の結果だったのである。
しかし、座を廃したことにより、かれは多くの勢力を敵にした。いつの時代においても、改革によって既得権を失うひとびとがいたからだ。それでも信長は根気つよく闘った。
かれの偉大さはそこにある。
上杉も武田も今川も、多くの大名が座を擁護した。座にお墨付きを出している公家や寺社を敵にしたくはなかったのである。
前掲のとおり、信長は比叡山をやきうちしたが、だれもやらない改革をかれひとりが断行したにすぎない。
さて、じつはいまでも、「座」は実質的に機能している。
たとえば、業界団体や特殊法人というのがそれである。座の商人が公家や寺社からお墨付きを得ていたように、現代版の座もまた、官僚機構の規制によって保護されている。
戦後、日本がまだ貧しかったころ、この座はよく機能した。
しかし、経済が成長してひとりひとりの所得が増えてくると、これらの座では、国民の欲求を満たしきれなくなった。いま、日本人の消費が冷えこみ、貯蓄が増えている理由はそこにある。
とにかく、信長は座をこわした。楽市楽座とは大規制緩和だ。
いままさに、楽市楽座を断行して、あたらしい時代にふさわしい商業活動が展開されなければ、日本再生はありえない。
後世のひとびとが現代をふりかえったとき、平成という時代をどうみるであろうか。はたして、
「平成文化の時代」
と、おもってくれるだろうか。大いに疑わしい。
もちろん、改革にはすさまじい抵抗がつきまとう。
いま、信長がいてくれたら…。