京都では、大文字五山送り火の季節を迎える。
五山の送り火は、毎年8月16日に京都で行われる盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事として有名だ。
いわでものことだが、盂蘭盆は先祖の霊を自宅にむかえて供物をそなえ、経をあげる仏事である。むろん、江戸時代には7月13日から15日までを盂蘭盆とした。いまでも、ある地方では農閑期の都合で旧暦によって行っているところもある。
そもそもこの仏事の起源は、死者が死後にさかさに吊るされるような非常な苦しみを受けているのを救うために、祭儀を設けて供養することにあった。それが後に、とりわけ祖先の霊を供養する法会をいうようになったものなのである。
ついでながら、日本では、斎明天皇3年(657)以来行われている。
もし、この盂蘭盆を通じて死者の霊と会うことが叶うのであれば、私はぜひとも戦国時代の人・織田信長に会いたい。
空想をつづける。
信長に会って、あの超人的な改革をいかにして成し遂げたのか、あるいはその独創的な国家ビジョンはどのようにして創造されたのかなど、聴きたいことは山ほどある。
自ら掲げたビジョンを実現するために、彼ほど多くの危険を冒した改革者はいない。そのため、武将や大名だけでなく、当時の世俗的権力者たる公家や寺社方までをも敵にした。そのうえ、身内からも反乱者があとを絶たない。
同じ状況下にある常人であれば、始末の悪いノイローゼとなってしまったであろうに。あるいは、とっくにビジョンなどは捨てて、旧習勢力との妥協を図っていたにちがいない。いまでも改革者を自称する政治家がそうであるように。
しかし信長はちがった。
かれにとって、一切の妥協は許されない。
その頑強な精神をいかにして持ちあわせたのか、ぜひ聴いてみたいものである。
信長については、書物やドラマをつうじて様々な観点から描かれているが、かれの真の偉大さを捉えているものは極めて少ない。
くりかえすが、信長は明確な国家ビジョンを掲げている。
この点、信長が鉄砲を使ったとか、あるいは楽市楽座を行ったとか、光秀や秀吉のような人材を抜擢したとかなど、個々の政策について評価する専門家はあまた見かけるが、必ずしも的を得ていない。
実は、この国家ビジョンこそ信長の真骨頂なのである。
あの時代あまたの戦国大名がいたが、明確な国家ビジョンを掲げた武将は私の知るかぎり織田信長と徳川家康しかいない。
当時の戦国武将がいかなるビジョンを持ちあわせていたのかは、それぞれ使用された旗印をみれば一目瞭然で、例えば、現在の山梨県である甲斐の国を治めた武田信玄の旗印は、有名な「風林火山」である。これは、『孫子の兵法』という戦術訓から引用されたものであり、いかにして戦争に勝つか、ということが主題となっているにすぎない。
あるいは、現在の新潟県である越後の国を領有した上杉謙信は、戦の神様として毘沙門天をつよく信仰し、その頭文字の「毘」を旗印とした。これが国家ビジョンでないことは言うまでもない。
国家ビジョンとは、いかにして天下をとるかではない。統一した天下をいかにして治めるかである。
その点、信長と家康のビジョンは鮮烈なほどに明確であったと言うほかない。
では、それらのビジョンは、一体どのようなものであったのか・・・
次号につづく