今日は9月17日。
明治27(1894)年の今日、黄海海戦(日清戦争)において我が国の連合艦隊が清国北洋艦隊を撃滅しました。
のちの日本海海戦(日露戦争)において東郷元帥を司令長官とする連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を完膚なきまでに叩きのめしたことは有名ですが、黄海海戦も日本海海戦に匹敵するほどの戦果だったことは意外に語られていません。
当時、軍船の量も質も北洋艦隊のほうが我が連合艦隊のそれを上回っていましたが、そこは「和」の国・日本です。山本権兵衛司令長官のリーダーシップと合理的な戦略及び功名な戦術によって北洋艦隊を見事に撃破したのです。
因みに、『勇敢なる水兵』という軍歌はここから生まれました。
一方、日清戦争で忘れてならないことは、この戦争が近代残虐史のはじまりだった、といっても過言ではないことです。
ご承知の通り、シナの歴史は古来より虐殺の事例にこと欠きません。
中村粲『大東亜戦争への道』(展転社)に、明治28(1895)年2月22日付で報知新聞に掲載されたフランスのフィガロ紙記者カレスコー氏及びイリュストラシオン紙記者フロー氏の日清戦争での従軍記が紹介されています。
「日本兵が彼ら(清国兵)の捕虜になると、手足を断たれ、あるいは首を切られ睾を抜かれる。その無情、よほどの野蛮人でなければできない所業だ。しかしながら日本はこのような暴に酬いるに徳を以って応じている。流石に東洋君子国たるに恥じずと言うべきではないか」
つい最近まで黒人奴隷をつかい搾取の限りをつくし、世界各地で嬉しそうに植民地を支配してきたフランス人さえをも唸らせ驚かせるほどの蛮行だったのです。
清国の捕虜となった日本兵は、生きながらにして四股を切り分けられたり、目をくり抜かれたり、火あぶりにされたりしたようです。
むろん、それら蛮行の数々は、捕虜を人道的に扱わなければならないとした戦時国際法の明白なる違反行為でした。
その余りに残忍な戦闘方法を目の当たりにした山県有朋(当時は第一軍司令官)は、たまりかねて・・・
「(敵に対しては)軍人といえども降参するものは殺すべからず。しかしながらその詐術にかかるなかれ。かつ敵国は古くより極めて残忍の性を有している。誤って生け捕りにされてしまうと、必ず酷虐にして死にまさる苦痛をうけ、遂には野蛮惨毒の所為をもって身命を殺害せらるるは必然である。よって決して敵の生捕りするところとなるべからず。むしろ潔く一死を遂げて、以て日本男児の名誉を全うすべし」
という布告を日本兵に出さざるを得なくなりました。
これこそが、敵の捕虜になることを禁じた我が国最初の訓令となり、後の大東亜戦争時の「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に継承されていくことになります。
もしもシナ人が残虐でなかったなら、このような戦陣訓にはならなかったでしょう。
上記のような蛮行の数々によって殺されし者を含めて、我が国は日清戦争において約3万将兵の命を失っています。その忠魂は、今も靖國神社にあられます。