川崎市議会では、今月5日から平成28年第3回定例会が開会されています。
代表質問2日目の昨日は、議事日程の一つに川崎市教育委員会委員の任命についてがありました。結果としては賛成多数で可決されたのですが、それぞれ3つの会派から質問がなされ、それに対し市長から各会派に答弁がなされました。
市長の答弁によると、「これからのグローバル化時代に対応できる人材」をつくるのが現在の教育に課せられた大きなテーマ、なのだそうです。
なぜ、一身独立した日本国民をつくるのが教育の目的、と言えないのか・・・
グローバル人材をつくる前に、一身独立した日本国民をつくることが先決だろうに。それに成功すれば、その人は自ずと国際社会においても十分に活躍できる人材になれるし、更に磨き上げれば人材どころか人物にもなれる。
気にくわないのは「国際社会」とは言わずに「グローバル化」と言う政治センス。
この一点で福田市長と不肖・私の政治思想は大きく異なります。
国際とは「国と国の際」、即ち国際社会は国家の存在を前提とした世界概念です。一方、グローバル化は国境を無くし、ヒト、カネ、モノの移動の自由を最大化することを前提とした世界概念です。よってグローバル化、もしくはグローバリズムは、いわば地球市民思想です。
しかしながら、「公」の最大概念は「国」です。
一定の常識や生活習慣を共有化できる最大範囲と言ってもいい。さらには食料、エネルギー、教育、医療、防衛などの生活上の安全保障を共有化できる最大範囲と言ってもいいでしょう。
その「公」の異なる共同体同士が互いに折り合いをつけ、なんとかお付き合いしていきましょう、というのが国際社会というものなのではないでしょうか。
一つの国の中において、自分たちのことは自分たちで決定することができる、という意味においての主権を有し、そうした複数の主権国家によって世界が構成されていくことこそが、結果としてより多くのそれこそ「地球市民」に居心地良い世界になるのだろうと思います。
国民が主権を行使して国策を決定するのが民主主義です。そしてグローバリズムは、国民主権及び民主主義を破壊するものです。
ところが、例えばブレグジット(英国のEU離脱)問題をみても明らかなように、いったんユーロ・グローバリズムに浸かってしまうとネイティブ・英国人たちの主権のもとに英国の政策を決定することが不可能になってしまうのです。
東欧ルーマニアやポーランドがEU(ユーロ・グローバリズム)に加盟した2004年以降、英国に東欧からの低賃金移民が流入することになります。結果、2008年から2013年にかけてネイティブ・英国人たちの実質賃金は僅か5年で8%も低下しました。
このとき英国国民は自分たちの主権に基づいて東欧からの移民流入に制限をかけることができません。
ほんの一例に過ぎませんが、ブレグジットは英国の民主主義がユーロ・グローバリズムによって破壊されてしまった、という典型的な事例です。
しかし今や、ユーロ・グローバリズムも転換期を迎えつつあります。英国がブレグジットをソフトランディングさせ、国民主権を回復して国民経済を立て直すことができれば、次は我が国の番だ、というEU加盟国が次々にでてくる可能性があります。また、「低くし過ぎた域内の国境をもとに戻し、それぞれの加盟国が主権を取り戻すべきではないか」という議論が巻き起こってくることになろうかと思われます。
世界史的な流れからみますと、そもそもグローバリズムが成立するためには世界の警察官を担う覇権国の存在が必要です。
歴史が証明しているとおり、1820年頃から1920年頃までの約100年間、世界は大英帝国を覇権国とするグローバリズムの時代でした。しかし、その大英帝国による覇権の終焉とともに当時のグローバリズムは潰えました。
今、これまでグローバリズムを牽引してきた米国が、その覇権の力と意志を失いつつあります。つまりは、今またグローバリズムは終焉を迎えつつあるのです。
なのに・・・「これからはグローバル化に対応できる人材がぁ~」
その言葉に周回遅れ感を抱いているのは私だけでしょうか。