我が国において、幕末の志士、といえば…誰しもが西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、高杉晋作などなど、ポピュラーなところで名前を挙げることができるでしょう。しかし下級武士だった人たちだけが、のちに志士と呼ばれる偉人になったわけではありません。
例えば、ヤマサ醤油の7代目当主であられた濱口梧陵(はまぐち ごりょう)という実業家もまた、私たち日本人にとって立派な幕末の偉人です。ヤマサ醤油の当主引退後は、明治政府で駅逓寮(現代でいうと郵政省)の初代長官も務め、近代的な郵便制度の確立に政治家としても辣腕をふるったという人物です。
濱口梧陵の郷里は紀伊国(現在の和歌山県)の広村ですが、ペリーが来航した嘉永6(1853)年の安政南海地震が紀州を襲います。梧陵が7代目ヤマサ醤油当主となった翌年のことです。
海辺であった広村に津波が来ることを予期した梧陵は、身の危険をも顧みず村民に避難を呼びかけます。その際、収穫したばかりの自家の稲むらを燃やして、逃げ遅れた村民に安全な場所を知らせた話は有名です。小泉八雲は、そうした梧陵の果敢な行動力への感動を「仏の畠の落穂」という短編集で後世に伝えてくれています。
梧陵はさらに、道路の復旧、がれきの撤去はもちろん、津波によって全財産を失った村民のために仮設住宅をつくり、村民が漁業や農業を行うための道具を手配し雇用の手助けをしました。
それだけではありません。驚くことに梧陵は、将来の津波被害に備えて全長600メートル、高さ5メートルの防波堤までをも私財を投じて建設したのです。その後、広村は広川町という町名に名前が変わりましたが、梧陵の防波堤は今も広川町に残り、防波堤として役割を果たしつつ史跡にも指定されています。
濱口梧陵はまさに経世済民の人というほかありません。
国民を守るために、私財をなげうってでも公共インフラを整備した濱口梧陵。片や、私財どころか税金という公費でありながらも防災投資を行わない現在の日本。
これいかに。