今年は日韓併合百年ということで、去る8月には国賊的「菅首相談話」が閣議決定された。まことに憤慨である。
このことは、日韓基本条約という国際条約の軽視であり、そして日本の近代史の否定でもあり、国家国民にとって大きな禍根となる。
いま尚、自虐史観に惑わされている日本人も多いので、前回の「強制連行について」につづき、今日は、いわゆる「創始改名」について、以下その事実関係を述べたい。
朝鮮には朝鮮固有の名前があったが、シナの支配下になってからは、シナの皇帝から功績のあった家にシナ式の「姓」を賜るようになった。それは彼らにとって名誉なことで、代々誇りにしていた。
その後、朝鮮の王も功績のあった家臣に独自に「姓」を与えるようになる。
この「姓」を有するのは両班(やんばん)と称する特権階級であったが、次第にその下の階層も「姓」を使用するようになっていく。
結果、326の「姓」が成立する。これら金・李・朴などの「姓」は血統を同じくする一族の名称であり、その血統につらなる一族の系譜を記した冊子を「族譜」といった。この族譜に示された姓は、日本の「氏」とは基本的に異なる。しいていえば、「源、平、藤、橘」のようなものである。
例えば、日本の足利義満は「源氏の足利義満」である。これは源という血族に属する足利という家の義満ということで、朝鮮式にいえば、「源義光」となる。「源」が姓であって、「足利」が氏、「義光」が名ということになる。
日韓併合後、朝鮮人が満洲などで日本人として振舞っても、名前で朝鮮人とわかってしまう。
そうすると、シナ人、満洲人から軽蔑されてしまい何かと不便なことが多かった。そのために朝鮮人の間に、「内鮮一体」(日鮮一体)なら自分たちも朝鮮人とわからなくなるよう日本人名が欲しい、という声が高まっていった。
そこで日本政府は、皇紀2600年とされた昭和15年(1940年)2月に、朝鮮と台湾で同時に日本式の「氏」を名乗ってもよい、という政令を出した。ただし、これは「姓」を廃止したのではない。「姓」を大切に思う階層の人々への配慮から、その伝統を尊重し、姓をそのまま残しつつ新たに「氏」を創設したのである。
これは「創氏」であって、「改氏」ではない。ここが重要である。
しかも、その「氏」を日本式にするかどうかは各人の自由であった。届けを出さなければそれまでの姓がそのまま自動的に「氏」となった。これを「法定創氏」という。
例えば、姓が「金」であれば、届けを出さなければ、「氏」は自動的に「金」となる。また、「金」の字に他の漢字を加えたりして、例えば田んぼの「田」を付ければ「金田」となるが、この場合は届け出が必要であった。むろん、これは強制ではない。あくまでも任意である。
「名前」も、従来どおりの朝鮮式とするか、太郎や花子といった日本式にするかは、まったくの任意であった。ちなみに、「創氏」は無料であったが、「改名」は有料(手数料)であった。
ともかくも、「創氏」した後も、姓は残され、戸籍に「氏」とともに記載されていた。
以上のように、氏を日本式にするかどうかは任意であったにもかかわらず、日本式にすることを強制した、と誤解している人々が多い。
南総督は3回も強制を禁ずる訓令を出している。当時の警察は、朝鮮人は朝鮮人の名前のままにしておいた方がよい、と「創氏改名」に反対であった。従って、官憲が日本式創氏の圧力をかけたとは考えにくい。
ただ、朝鮮人の地方役人が、自分の忠誠心を競って改名を過度に強制したことは考えられる。
朝鮮に13あった「道」の知事の約半分は朝鮮人が務めたが、終戦時には3人が朝鮮名のままであった。自分が朝鮮名のままで、その下の者に「改氏」を強制できるはずもない。洪思翊(こうしよく)陸軍中将や朴(ぼく)春(しゅん)琴(きん)衆議院議員のように朝鮮式姓を日本式氏に変えずに出世した人たちもおり、日本式に氏名を変えないことによって、公に差別されたことは一切なかった。
創氏:従来存在していなかった家族名(氏)を創設。
改名:名前(三宅隆介の隆介に相当する部分)を日本風にすること。
※昭和20年(1945年)に、北朝鮮では、族譜を全面廃止した。