昭和12年(1937年)の今日、シナ大陸の通州で日本人居留民(コリア人も含む)200名以上が虐殺された。虐殺したのは、シナ人保安部隊である。しかも彼らは、およそ人間とは思えないような凄惨な方法で惨殺した。しかし、現在の日本の教科書をはじめ、東京裁判史観に汚染された各種資料からはこの事件は完全に抹殺されている。
シナ大陸の通州には、当時は日本国民であったコリア人も含めおよそ300人の日本人居留民が暮らしていた。この地域は親日的と言われていた冀東(きとう)政府が支配していたが、当時のシナ大陸では蒋介石の国民政府のほか各地に自治政府が乱立していた。辛亥革命(大正元年・1912年)以来のシナはほとんど内乱状態であったからだ。
通州事件の少し前の7月7日には、盧溝橋において日本とシナの間で紛争が勃発している。この盧溝橋事件は国民党軍に紛れ込んでいた共産党のスパイによる謀略によって発生したことが、今では明らかになっている。演習中の日本軍にむけて発砲し、国民党軍と日本軍を相討ちさせようとする共産党の企てであった。しかし数日後、現地で停戦協定が結ばれ、この盧溝橋事件は終結している。当時の近衛内閣は不拡大方針を示していたので、すぐに停戦協定が結ばれたのである。ただ残念なことにいったんは停戦しても直ぐにシナの側から一方的に停戦協定は破棄され、国民党軍は我が軍に対して攻撃をしかけてきた。おそらくこれらの停戦破棄も、国民党内に紛れ込んだ共産党員の謀略によるものであったろう。
そんな停戦破棄と停戦を繰りかえすうちに、国民政府は対日交戦に一転した。その後、シナ事変が本格的に拡大したのは、昭和12年8月13日にはじまる第二次上海事変からである。国民党の正規軍約5万が、僅か4千5百人たらずの海軍特別陸戦隊が守っていただけの日本人居留民に対し突然に攻撃をしかけてきたのである。
くりかえすが、シナ事変は日本が望んで起こしたものではない。シナ事変が拡大し長引くことで日本に得るものは何もなかった。いわゆる東京裁判の際に東條元首相が書いた『宣誓供述書』を読んでみても、日本がいかにしてシナ事変を早く終結させるかが当時の内閣の重要課題であったことが伺える。
通州事件はこうしたことを背景として、7月29日に起きた。この事件は日本軍の誤爆に対する報復であったとする説があるが、これは明らかにおかしい。たしかに誤爆はあった。通州事件の前日に我が軍が華北を総攻撃した際、通州の保安部隊を誤爆した。しかし我が軍の責任者たちが、直ちに冀東政府に陳謝をして一件落着している。そもそも誤爆の報復として、一般の居留民を殺戮すること自体がおかしい。要するに彼らは、誤爆以前から反日に転じていたのであり、虐殺は周到に計画されていたのである。
通州で日本人が虐殺された、という報は日本にも伝わった。日本人のシナ人に対する怒りは頂点に達した。当時の日本人の反シナ感情はこの通州事件を抜きにして理解することはできない。
73年を経た今、改めて虐殺された同胞に対し心から哀悼の意を表したい。