本年、2006年は我々日本人にとって、
大きな節目となる。大袈裟なようだが未曾有の危機といっていい。
日本の人口が本年をもって減少しはじめるからだ。当初、人口のピークは2006年といわれていたが、政府の統計調査によると昨年が既にピークであったという。日本人が人口の減少する社会を経験するのは史上はじめてのことだ。
問題は、人口が減少するということが、どのようなことを意味するのか、である。
人口減少は、経済的困難を意味している。
その点、政治家があまりにも呑気なものだから、その深刻さは国民に伝わっていない。
一般的には、人口の増えない経済は成長しないといわれている。成長しないということは、簡単にいえば、給料が上がらないということを意味する。人口が減少した分だけ、ひとり当たりの生産力を拡大していかない限り、給料は上がるどころか下がってゆくのである。
このままの減少ペースがすすめば、おそらく平成80年から90年頃あたりには、日本の人口は6000万人(現在の半分)ぐらいになっているだろう。
むろん、私のどんぶり勘定である。
“どんぶり”の大きさが仮に的中すると、6000万のうち約5000万人が高齢者で、残りの1000万人が労働人口ということになる。
ひとりの労働者で5人の高齢者を支える社会が、そこに出現するのである。これでは、おそらく社会経済は成立し得ないだろう。したがって、どこかの段階で外国からの労働移民の受け入れが必要となってくるにちがいない。
しかし、日本のような均質性の高い社会において、大量にして多様な異文化所有者が束となって流入すれば、たちまち社会は混乱してしまいかねない。
そこで、労働移民は少しずつ入れる、という措置を講ずるのだろうが、その混乱の心配はぬぐえない。
なじなら、受けいれる側の日本人に“日本人としての意識”が今以上に乏しくなっていることが予測されるからである。
歴史を含めた伝統や文化こそ、日本人が日本人としての意識をもつ唯一の手がかりであって、その伝統や文化を大切にしない民族や国家はいずれ衰退してゆく。そらが歴史の理であろう。
栄枯盛衰もまた、歴史の理かもしれないが、文化や伝統を守りつづけさえすれば再び栄えることも可能であるにちがいない。
ロンドン生まれの随筆家、そして詩家としても有名なG・K・チェスタトンは「縦」の民主主義と「横」の民主主義という概念を定義した。
「横」の民主主義とは、現在生きている私たち人間の中での合意形成を意味し、ごく一般的な民主主義をさす。
一方、「縦」の民主主義は、現在生きている人間のみならず、過去に生きた人々の意見をも含めた合意形成のことを意味している。
といって、すでに死んだ人々に意見を直接拝聴することは不可能だ。だからこそ、歴史に生きた人々の意見をしるための手段として、学問なるものが存在しているのかもしれない。
どうやら、日本では「縦」の民主主義があまり機能していないようだ。否、へたをすると「横」のそれすら機能していないのかもしれない。
人口減少より、日本人としての自我の希薄の方が大きな問題だろう。
かつて、アジアの極東に「日本」と呼称された国が存在したことがある、と言われる時代が来ないようただただ願うばかりである。
願いつつ、自分が行動者あることを戒めて。