さて、いよいよ本題に入る。
まず、信長の組織改革からはじめたい。
私たちが、よくテレビドラマでみる時代劇の多くは、徳川260余年を舞台にした江戸時代を背景としている。
たとえば、一般的に有名なテレビ番組を挙げると、『水戸黄門』、『子づれ狼』、『暴れん坊将軍』がそうで、古いところでは『遠山の金さん』、『大岡越前』、『必殺仕事人』などもある。むろん、その他にも列挙すればきりがない。
当然、時代劇には、必ずといってよく武士と農民と町人が登場する。前項でも述べているように、この時代、徳川家康公が築いた「士農工商」という身分制度が確立していたのである。
しかし、ここでよく陥りがちな誤解がある。武士と農民というのは、昔から分け隔てられていた別々の存在であった、とする大きな誤解である。実は、武士と農民が完全に分離されたのは、信長が登場してからのことで、それを秀吉が引き継ぎ、家康が完成させた。
信長が生まれた中世末期には、武士と農民、商人と盗賊、聖と物乞いの区別はほとんど無かったにひとしい。
学校の授業のような説明は避けたいが、少し解説がいる。
奈良、平安の時代、つまり中世の日本社会は原則的に公地公民制であった。学校教育ではそれを律令体制と教えている。
農地は農民のものでなく国家のもので、農民自身が国家の所有でもあった。また、律令国家は農地拡大を国是としていたので、開墾を奨励した。
インセンティブをつけるため、その墾田を開墾者の永久所有とした。しかしなぜか、その所有権はやがて認められず、中央政府たる公家や有力な寺社の私領(荘園)に組み込まれていった。そうなると、公家や寺社の一声でせっかくの墾田が他人のものとなってしまう。必死に開墾した農場が自分のものにならないのである。
仕方なしに開墾者たちは、開発した農場を京の公家や有力寺社に献上し、自分たちはその農場の管理人となりさがった。そうすることで、その土地の実質的な所有権を得たのである。
なにやら、ほんとうに社会科の授業のようになってきた。
退屈な話しだが、続ける。
その管理人は農場を管理するだけでなく、田を耕し、作物をつくり自給自足の生活をした。当然、所有者である公家や寺社に収穫の一部を租税として納めた。また、外敵から農場を守るために武装もした。武装して自衛したために、武士といわれるようになった。
余計なことだが、管理人となってでもその一箇所の農場を必死で守ったことから、
「一所懸命」
という言葉が生まれた。
要するに、武士とは公家や寺社の私領を管理したお百姓さんのことだったのである。京の公家から見れば、武士は公民にすぎず、ひどく言えば奴隷のような存在であった。
(公家と武家、というふうに対置して称せられるようになるのは、鎌倉時代以降である)
以上のように、武士の本業は、お百姓仕事であったことを理解せねばならない。なお、信長の生まれた頃の世の中においても、武士と百姓の区別はなかったのである。
つまり、戦国時代における大名軍は百姓兵によって構成されていたのである。今川家もしかり、武田家もしかり、徳川家(松平家)でさえも、当初は百姓兵の集合体で、またそのことが極めて常識的なことでもあった。
この百姓兵を主力戦とした戦国時代はおもしろい。
戦につぐ戦の世の中で凄惨な殺し合いがときにありながら、それぞれの戦国大名たちの間に、暗黙の了解事項として様々な交戦ルールが存在していたのである。
たとえば、戦国大名はみな、春と秋はほとんど戦争をしない。
それは、各大名軍が百姓兵によって構成されているため、春の田植え期と秋の収穫期には、戦場に行けないからである。
また、お互いの財政基盤が農地にあったため、お互いに農地を戦場とはしなかった。
主に「原っぱ」で戦争をした。だから、戦国時代の戦場は、「~原」や「~ヶ原」と呼ばれるところが多い。
たとえば、よく知られている「関ヶ原」もそうだし、家康が武田信玄に負けた「三方ヶ原」もそうで、信長と武田勝頼が戦った長篠の戦いは「設楽ヶ原」というところで行われた。
話をもどす。
信長の父である信秀も、当時の常識どおり、自分の領地の百姓に兵役を課し、織田軍を編成していた。
父・信秀が死に、信長が織田家を継承した。
と同時に、組織編制が行われる。
かれは父の築きあげたものを壊すことからはじめるのだが、まずその先駆けとして、従来型の百姓兵からの脱却を図ったのである。
信長は、農村に縛られた百姓兵に依存することなく、お金で雇った専業兵士を軍の主力にしようとしたのである。いわば、サラリー軍人募集による軍備の再編成だ。