今年の上半期、『ラストサムライ』という映画が流行し、大きな話題をあつめた。
表題がカタカナであることからもご承知のように、制作したのはハリウッド映画である。明治十年に勃発した西南戦争に至るまでの経緯がモデルとなっていたようだ。
日本を近代国家とすべく、急激な西洋化を進める新政府に対し、日本の文化や伝統を否定してまでの近代化(西洋化)に何の意味があるのか、と問いかけた「最後の侍」たちの熱い物語である。
ここでは、あらすじは述べない。
ただ、「日本とは何か」ということを、日本人自身があらためて考えるきっかけとして、一人でも多くの日本人にこの映画を観てもらいたいと率直に思った。
たとえば、私は「茶の湯」を学ぶ者のひとりであるが、権力の座にある者たちが、茶の湯を学ぶ者たちに対して、
「おまえたち、いつまでそんなもので茶を点てているのだ」
と、怒号の言葉をぶつけ、茶碗や釜をたたき割り、茶杓や湯杓をへし折り、掛け軸を引き裂き、茶花を踏みにじり、西洋式の椅子や机をならべ、
「今日からは、コーヒーと紅茶を飲め」
と、強要する。
その権力者はさらに言う。
「そんな茶の湯などやっているから、西洋人に馬鹿にされるのだ」
ここでいう「茶の湯」を華道や剣道など、他の文化に置きかえても通用する。文化を否定された側とすれば、戸惑いと戦慄がはしるのも無理は無い。
要するに、文化と文明の衝突なのである。
しかし同時に、私は、明治の近代化のすべてを否定するつもりはない。西洋文明を受容したればこそ、私どもは現在の便利な生活と豊かな暮らしを享受しているのである。文明と文化が戦争すれば、文明が勝るのはあたりまえだし、文明の力によって平和がつくられていることも事実である。
問題は、外来文明を受容するあまり、それまでの文化・伝統を過剰なまでに完全否定することである。
例えば、近代郵便制度を創設した前島密は漢字を捨てようとしたし、初代文部大臣となった森有礼は、日本の国語を本気でフランス語に変えようとした。
伝統や文化の蓄積があればこそ、他文明を摂取することもできるし、新しい文化を生み出すことも可能なのである。日本人はそのことを再認識すべき時にきている。明治という国家が繁栄をなしえたのも、文明を受け入れる日本文化という下地が存在していたからだ。
その点、織田信長は偉大である。
かれは、南蛮(スペイン・ポルトガル)の外来文明を受容しつつ、世界にほこるべき日本文化を後世に伝えた。信長による南蛮文明の受容なくして安土・桃山文化の成立はありえない。ゆえに安土・桃山文化は、信長文化そのものであった、と私は思っている。私が学ぶ「茶の湯」にしても、信長なしに語ることはできない。
自分の国の文化と歴史を知る。
そのことが新しい文化を生み出す力となり、国を立て直す源となることを「最後の侍」たちに、あらためて教えられたようである。