『時代は再び第一次世界大戦前~日本よ、備えはあるか』
第6回
1990年代以降の世界は、グローバリズムという新帝国主義によって国民国家解体の時代に突入しました。
その背景には、デジタル化による情報処理技術の飛躍的進歩と、それと連動する実需なき金融の肥大化があり、さらにそれらを可能にしたのは、国境を越えてヒト・モノ・カネが世界中を自由に駆け巡ることを可能にするシステムです。
例えば、アフリカには、国家成立の経緯もあって、国民国家として、その国土全体を面として向上させていくような、そんな統治をできる国家がほとんどありません。アフリカで唯一、工業のある国といえば南アフリカ共和国くらいで、多くの地域は、戦乱、革命などで荒廃したか、未開発のままに取り残されてきました。しかし近年、国際金融資本による資本が新しい投資先としてアフリカに資金を移動させ、鉱山開発等を進めています。シナも国家戦略として国家資本と共産党幹部の莫大な資金を投じています。
これは一見すると、アフリカの開発が進み、現地住民の生活向上にもつながるのではないか、という期待を抱かせるかもしれません。
しかし、例えば、とある鉱山の採掘現場で彼らは一日2ドルから5ドル程度の低賃金で過酷な労働を強いられます。さすがに奴隷貿易時代のように食事と水と寝床だけ、というわけにはいきませんが、漫画『カイジ』に出て来る地下鉱山を思い浮かべればいいでしょう。実体は現代の奴隷労働です。
日本の死刑が人道に反するとか騒ぎ立てる欧米人権屋、あるいはミャンマーのスーチーの邸宅にやって来ては(軍事政権に軟禁されていたといわれていますが、彼女が住んでいるのは2000坪もある大邸宅です)ミャンマー政府の人権侵害を騒ぎ立てる欧米人権屋は、こうしたアフリカの現状に対して、ずいぶんおとなしくしています。それは彼らのスポンサー、或いはお仲間がこうした奴隷労働で、アフリカ人民を搾取している国際金融資本だからです。
本来なら、こうした国際金融資本の暴虐から国民を守るのが政府の役目です。しかし政府の無いところでは、そうした保護がかないません。それはアフリカの様な「後進国」だけのことだ、とでも言うのでしょうか。