前回のブログで「集団的自衛権」と「集団安全保障」について述べたところ、多くの方々からその違いをぜひ教えてほしい、とのお問い合わせを頂きましたので・・・以下。
集団的自衛権(collective defense)は、自然法ともいうべき主権国家に与えられた固有の権利。(権利の法理)
集団安全保障(collective security)は、国連憲章第1条の目的を達成するための手段。(責務の法理)
個別的であれ、集団的であれ、自衛権は固有の権利である以上、それを行使しようと自粛しようとその国の勝手。「現行憲法が集団的自衛権の行使を認めていない」という内閣法制局の解釈は明らかな誤り。前回のブログでも述べたが、被占領国の日本が占領国の米国を守るために武力を行使することなど、憲法制定当時の米国が想定しているはずもない。想定していないのだから否定しているはずもない。
また、いま政治課題となっている集団的自衛権の議論を聞いていると、まるで「同盟国(米国)を守るための権利」のように論じられているが、必ずしも同盟国だけを対象としたものではない。例えば、フィリピンから要請を受ければ日本が集団的自衛権を行使することはありえる。
ただし、個別的自衛権も集団的自衛権も、ともに集団安全保障(collective security)が機能するまでの間に許された臨時的な権利行使にすぎない。集団安全保障の集団的措置(国連憲章第42条)がとられ、国連にオーソライズされた軍隊が組織され機能したら、速やかに自衛権行使を止めその指揮下に入らなければならない。
昨今、国連の安保理が機能せず、国連軍が米国主導の有志連合軍となる場合もあるが、そもそも国連は米国による一極秩序をオーソライズするための機関であるので、米国主導の有志連合軍も立派な集団安全保障(collective security)の一形態なのである。
要するに集団安全保障(collective security)とは町会や自治会の夜警と同じで、国連に加盟した国々が責任をもってその措置に参加しなければならない。残念ながら日本は、おなじみの占領憲法の縛りから、この集団安全保障における武力行使に参加していない。日本は国連憲章第1条の責務を果たしていないのである。
自国(家族)の平和ばかりを主張し、集団安全保障(町会の夜警)に参加せずにカネだけだしている日本の一国平和主義は、国際社会の中で理解を得られていない。
今、求められている議論は、集団的自衛権行使の議論ではなく、集団安全保障に参加できない現状をいかにして解決すべきかの議論である。責務を果たさず、権利ばかりを主張していると日本は益々世界から孤立する。