先週、神奈川県逗子市でデザイナーの女性が以前つきあっていた男に刺殺されるという事件が起きた。被害者女性はこの男のストーカー行為に以前から悩み警察に相談していたという。昨年、男は女性に脅迫メールを送りつけた疑いで逮捕されたのだが、その際、引越し先や結婚後の姓が警察から男に伝わってしまった。
警察が犯人を逮捕する際、被害者がどこの誰なのかをきちんと伝えることが法的なルールでありマニアルであるのは確かだ。しかし今回の場合、必ずしもマニアルどおりにするべきかどうかの知力が必要であった。担当した警察官は「ルールを守って何が悪い」と言うかもしれない。もし言うのだとすれば、こうした人材のことを「偏差値秀才」という。知識があっても知力に劣る人材だ、と言わざるを得ない。おそらくこの警察官は、職務に対しては至ってまじめで誠実な警察官なのだろう。だからこそルールを遵守したし、そのための知識も持っていた。しかし、それによる影響とリスクを推察する思考力と創造力に欠けていたのではないか。
これまでにも述べてきたとおり、いつの時代でも偏差値秀才による公権力の行使は国を危うくする。戦前もそうであったし戦後もしかりである。明治以降の日本の最大の欠陥は、公的教育システムが偏差値秀才の養成を目的としていることである。クイズ王をたくさん輩出しても政治も社会も良くはならない。知育の知とは知識でなく知力をいうのだから。
現行の教育制度の根本的問題は義務教育にある。知識一辺倒で徳育や体育は二の次のような教育では知力、行動力、人間性に優れた人材は育成されにくい。ある教育者によれば、人間の能力は小学校教育で決定するという。だからこそ、義務教育改革は大学の設置基準の見直しよりも優先されるべき課題なのである。これを改革できれば、そもそもストーカーをするような人間も減る。