連休中の5月4日、かつて官営工場とした栄えた群馬県の「富岡製糸場」を訪れた。言うまでもなく、富岡製糸場は明治維新後の日本が近代国家をつくるための礎の一つであった。その原型を保ちつつ、今なお威容を誇るこの工場を、一度は見ておかねば、と予てより思っていた。
この製糸場は民間に払い下げられた後、なんと昭和62年まで稼働していたという。今は、富岡市の所有となり観光施設となっている。観光化されてはいるが、建物や繰糸機など工場全体としても往時の威厳を充分に感じさせてくれる。
拝観料を払って中に進むと、地元民と思われるご高齢の男性が何人かの来場者を束ねて観光者むけの付き添いガイダンスをしていた。ガイダンスを行う男性は数名いるらしく、建築物の工法、当時の女工さんの様子、繭の保存方法、指導にきたお雇い外国人の住居のことまで丁寧に教えてくれる。この工場が当時としてはいかに先端的であったか、ということを特段に強調していたのが最も印象的であった。考えてみれば、維新政府の外貨手持ち高はゼロ。蚕以外に近代産業に必要な資源もなかった。その日本が唯一の基幹産業たる生糸を売って外貨を蓄え近代国家をつくったのだから、まこと凄まじい。
ただ、説明員たちのガイダンスに大きな誤りがあるのを発見した。その誤りとは言い間違いや度忘れなどではない。明らかな認識不足である。彼らは「この富岡製糸場から日本の近代化がはじまった」としきりに言う。しかし、日本の近代化の歴史的起点はこの富岡製糸場とは言えない。日本近代化の起点は、なんといっても幕末に整備された「横須賀造船所」である。横須賀造船所は幕臣・小栗上野介の提案により整備された。しかも小栗は幕府のためにつくったのではなく、日本国を近代国家にするため、という明確な目的と戦略をもち幕閣のつよい反対を押し切って具現化したのである。
例えば、当時作成された横須賀造船所の俯瞰地図をみると、造船所内の建物は「木骨レンガ造り」だ。まさに富岡製糸場の建物と同じである。あるいは、工場の始業時間は何時からで、何曜日が休みで、といった具合に、工場で働く人たちの労務基準規約も日本ではこの横須賀造船場から生まれた。その他、ハード面においても、ソフト面においても、様々な横須賀造船所のノウハウがあったればこそ、のち明治5年につくられた富岡製糸場が順調にスタートできたのである。それはひとえに小栗の功績といっていい。
因みに、日露戦争の日本海海戦においてバルチック艦隊をことごとく撃沈できたのも、小栗が横須賀造船所をつくってくれたお蔭である。連合艦隊司令長官であった東郷元帥も小栗上野介の功績を称え、日露戦争を終えたのち小栗家にお礼を述べている。
その小栗の墓は群馬県の倉渕町にある。小栗も富岡製糸場も、ともに群馬県人の誇りではないか。むろん日本人としても大きな誇りである。同じ日本人として先人の確かな功績を正しく後世に伝えていってもらいたいと思う。
もし私が富岡市議会議員であったなら、このことを議会でとりあげ直ぐにでも富岡製糸場のガイダンスを訂正させているだろう。
地方議員は分権だの維新だの騒ぎ立てるまえに、まずはしっかり仕事をしたほうがいい。