地域経済の景気動向は、震災の影響のみならず、もともとの構造的不況も重なって依然として厳しい。
なかには「貸し渋り」や「貸し剥がし」に苦しむ中小零細の事業者もいる。
一般論として、日本においては地域金融機関の個人への融資能力、あるいは与信能力は極めて低いように思われる。現に個人向けの金融商品の種類をみても圧倒的に少ない。
これには様々な要因があるが、その要因の一つに各自治体による安易な地方債の発行があるのではないか。
自治体の発行する地方債を地域の金融機関が安易に引き受け過ぎれば、金融機関の商品開発力や与信能力の低下を招く。また、安易な地方債の発行は行革の遅れにもつながる。
総務省によれば、地方自治体の市場公募地方債の発行額は過去最高の7兆3400億円に上る見通しになるという。また、2003年から導入された共同発行債の発行も1兆6200億円を予定しており、これも過去最高の額となる。
一方、金融機関の貸し出し状況をみても、昨年4月の日本経済新聞によれば、国内銀行の地方自治体向けの融資残高は昨年の2月末時点において22兆575億円となり(過去最高の残高)、各自治体が過去に借り入れた高利の貸付金を繰り上げ償還し、その借り換え先として民間銀行が特需の恩恵を受けた格好となった、と報じている。
ここに、各地方自治体と金融機関の「持ちつ持たれつ」の関係が生じている。
現在は民間の資金需要そのものが少ない、という意見もあるが、であるならば、サラ金の隆盛とヤミ金の横行をどのように説明するのか。
例えば、過払い利息についての判決が出て以来、サラ金は低迷しているがサラ金の需要はある。それは銀行が個人に金を貸さないからではないのか。ただ、パチンコなどでの借金や博打がらみでサラ金を利用した人もいたかもしれないが、それは論外。
そうではなく、中小企業経営者が資金繰りのために利用する。あるいは、個人が急の出費に利用する。などなど、堅実な資金需要もあったはずだ。そうした人たちに銀行は金を貸さなかったし今も貸さない。そのためにイカガワシイ暴力団がらみのサラ金に不当に儲けさせてきたのではないか。銀行はそれらに融資するという、いわば迂回融資でサラ金に汚れ仕事をさせてきたのではないか。
サラ金やヤミ金が蔓延ることでもあきらかなように、地域経済において資金需要は必ずある。その需要に対応できないのは、金融機関が個人金融や個人融資を行うノウハウに乏しいからではないのか。つまり、地域の金融機関が地方債などの安易な投資に走り、地元産業の育成を怠り、自らも新しい投資の仕組みや金融商品の開発を怠ってきたからではないのか。
地域金融が地元密着を売りにするなら、こういう時代にこそ個人金融を開拓すべきではないか。それにはノウハウも必要であり、ときに失敗もあろう。しかし、そうして開発された個人金融の技術は地域の金融機関にとって大きな資産になるはずだ。それを通じて、個人や零細企業の倒産を防ぎ、不況を乗り切り、次の発展につなげることができるのではないか。
自治体の起債には政府保証もついていることから回収に何の危険もない。地域の金融機関はこのようなノーリスクの貸し出しをしていれば、何の工夫もなく金利を稼ぐことができることになる。そのことが融資力の低下につながるという悪循環に陥っている。
日本経済新聞の1月28日付の記事に、
「日本の国債が格下げされ、外資系の証券会社が日本株業務を拡大する」
という記事がある。そこには「いま、海外の投資家の中で、アジア経済の恩恵を受ける日本企業の収益拡大や株価の上昇に対する期待感が高まっている」とも報じられている。
しかし、日本企業の業績向上力は今になって高まったのではない。
もともと業績向上力はあった。にもかかわらず、それらが抑えられてきたのである。その原因は、地域の金融機関が地方債などの安易な投資に走り、地元産業の育成を怠り、自らも新しい投資の仕組みや金融商品の開発を怠ってきたことにある。
例えば、高齢者がデタラメ金融商品に騙されてしまうのも本人の責任ではあるが、高齢者の福祉サービスや介護のサービスをその高齢者の資産を活用して提供する、といった金融商品を開発し、それを地域の金融機関の信用を媒介させて紹介していれば、もう少し違った状況になっていたのではないか。
また、安易な起債は行政改革を阻害する点も否めない。必要な資金があるならば、組織改革したうえで、むしろ増税を市民に問うべきである。
アダム・スミスは「公債とは税金手形である」と言っています。つまり債券とは税金にほかならないということ。結果として、国民が負担することになる。であるならば、安易に公債を発行せず、まずは行政改革を速やかに断行し、そのうえで財源が不足する場合には、堂々と増税を提案するべきではないのか。
仮に増税を提案するとなれば、その施策の必要性や行政の効率などを行政も議会も住民も真剣に見直すことにつながる。
反対に公債は、こうした改革すべき点を隠してしまう性質をもっている。結果として、行政にも市民にも議員にも痛みがないゆえに、そのつけは必ず後の世代の市に返ってくることになる。
ましてや朝鮮学校に補助金をだしてまで地方債を発行するなどということは本末転倒である。
このように安易な自治体の起債は、市政改革を遅らせ、地域金融機関の商品開発力と個人への与信能力を低下させ、地域の経済や福祉の発展をも阻害する要因となっていることを問題提起したい。