「強制連行」という言葉をきいて、どのようなイメージが浮かぶだろうか。
この言葉は、「朝鮮人強制連行」として使われることが多いが、わが軍や警察が、朝鮮半島において朝鮮人を銃剣で追い立てて貨車やトラックに詰め込んで日本本土に無理やり連れて来て、無理やり働かせた、そういうイメージではないだろうか。
ところが、これは全くの嘘、なのである。
いや、そんな筈はない、「来たくなかったけれど連れて来られた」と聞いている、という反論があるかもしれない。
戦時中、内地においも勤労動員が行われた。回想録などの一部にはこれについて似たような記述を見出す。しかしそれを「強制連行」という人は一人もいない。これは「戦時徴用」だからである。兵士として軍隊にいくのが「徴兵」であり、国家の正式な命令によって公用に服するのが「徴用」である。
戦時における「徴用」は、「強制連行」ではない。外務省など日本政府も、公式な見解として「徴用」と「強制連行」を同一のものとは見なしていない。民間人の動員、即ち「徴用」という事態は戦争になれば当然のことであり、その「徴用」を「強制連行」と言い換えて既成事実化を図ろうとする行為は甚だ許しがたい。
民間人の徴用は、戦時においては連合国においても広く行われていた。
例えば、ヒトラーによって空襲されたロンドンにおいても、工場に徴用されていた多くの女性たちがその犠牲となっていることは周知の事実である。
日本人に「徴用令」が公布されたのは昭和14年である。日本本土では、多くの中高年やご婦人をはじめ、旧制中学生や女学生たちも学業を中断して工場などに動員され生産に従事した。
しかし朝鮮人に対しては適用されなかった。彼らには、昭和14年9月から「自由募集」というかたちで本土での労働が認められ、朝鮮総督府の許可により朝鮮人の渡航制限が解除されることになった。意外に思われるかもしれないが、併合以来、我が国は朝鮮半島から日本本土への渡航を制限していたのである。この時はじめて、豊かな本土で働きたい朝鮮人には「自由募集」というかたちで門戸が開かれたのである。
やがて昭和17年からは「官斡旋」による募集がはじまった。これは企業主が朝鮮総督府に必要とする人員の許可申請を提出して仲介を依頼し、行政の責任において労働者を募集するというものだった。戦時「ハローワーク」のようなものだ。
その後、大戦末期の昭和19年9月になって、朝鮮人に対してもようやく本土の日本人と同じく「徴用令」が公布された。しかし翌年の昭和20年3月に、日本は本土と朝鮮半島との間の制海権を失う。そのため、下関-釜山間の船が止まってしまった。よって朝鮮人に「徴用令」が実施されたのは、たったの6カ月間であった。
そもそも、「強制連行」が事実なら、戦後の日韓関係を規定する日韓基本条約の締結交渉でなぜ韓国側は問題にしなかったのか。サンフランシスコ講和条約の締結により日本は主権を回復した。これにより日韓関係も新しい段階に入ることになり、条約締結交渉がはじまった。じつに7年を要したこの交渉で、ただの一度も「強制連行」も「従軍慰安婦」も問題になっていない。
韓国内において、もし「強制連行」で村や町から家族が「連行」されていたなら、あの人たちが騒がないということがあるだろうか。敗戦後の日本国内で、戦勝国民として扱われるべきだ、とその代表部が連合軍最高司令部(GHQ)に要求していた韓国人だ。「強制連行」されていたのなら、それについてなにも言わないはずがあるだろうか。GHQもアウシュビッツからの解放のような場面を演出しないはずがない。それらがないのは、「強制連行」ではなく、戦時徴用だからである。それは戦争にはつきものの政策で、違法ではなく、したがって、戦争が終われば徴用解除となり、問題は帰国政策だけである。事実、GHQの政策もそれだけだった。
「強制連行」とは、日本を貶め、在日朝鮮人が日本をゆするために捏造した偽史である。戦後、在日朝鮮人の間ですらも、これを「強制連行」などと呼ぶことはなかった。「強制連行」なるプロパガンダ用語が登場したのは、戦後20年余り経った昭和40年に、北朝鮮系の朴慶植が『朝鮮人強制連行の記録』というインチキ本を出してからである。
日本統治下の朝鮮半島では、朝鮮人も日本人と同じように法的拘束力のある「義務」を負った。と同時に日本国民としての「権利」も保障されていた。
その最もよい例が選挙戦である。大正14年の普通選挙制度の導入により、満25歳以上の男子には、日本人だけでなく内地在住朝鮮人にも選挙権が付与された。一方、朝鮮半島に在住する者は、朝鮮人も日本人も参政権が与えられていなかった。
例えば、朴春琴という内地在住朝鮮人は、衆議院議員に二度も当選している。このことは、内地朝鮮人が被選挙権を有し、かつ民族名でも何ら差別を受けなかったことの証左である。
現参議院議員の枡添要一氏の父親である枡添弥次郎氏は、昭和5年に福岡県若松市議会議員選挙に立候補した際、ビラの名前にカタカナとハングル文字でルビをふった。これは、当時日本に在住していた朝鮮人が参政権を有していたものの、日本語を書けない朝鮮人が多いため実際に参政権を行使できなかったことへの配慮であった。またこの事例は、ハングルでの投票が有効だったことと、日本が「言葉を奪った」という主張がデタラメであることを、よく示している。
このように、朝鮮人は、日本国民として等しく権利と義務を有していたのであるから「徴用」は、法的な観点から見ても全く問題はない。なお、労働者の徴募に日本の軍隊や警察は一切関わっていない。むろん、賃金も支払われたのだから「強制連行」「強制労働」というのは全くの的外れである。