去る2月28日付けの産経新聞朝刊に、驚愕の記事が載っていました。
翌日3月1日発売の『正論』にもくわしく掲載されていますが、昭和3年(1928)に発生したいわゆる「張作霖爆殺事件」に関する記事でした。 張作霖爆殺事件は、
日本の関東軍が中国侵略の第一歩として中国北部の奉天(現在の瀋陽)郊外で行った爆殺事件である、というのがこれまでの通説です。
現在、学校教育でもそのように教えています。
しかし記事によれば、
「この事件は日本軍が起こしたものでなく、ソビエト特務機関が手を下し日本軍の仕業に見せかけたものである」
ということです。
これを述べているのは、ドミトリー・プロホロフというロシアの歴史家です。
当時、一度はソ連と友好関係を結んだ張作霖がさまざまな経過を経て反ソ連に転じたため、暗殺されたといいます。その暗殺も一度は失敗し、二度目の暗殺計画で殺されたようです。
東京裁判では田中隆吉という旧陸軍の軍人が証言し、その証言によって日本の罪とされたのですが、実は田中隆吉の証言はソビエト国家保安省が準備したもので、田中はその内容に沿って証言させられた、とプロホロフ氏は述べています。
現在では、シナ事変の発端となった盧溝橋事件もコミンテルンの策謀によって始められたことが解明されつつあります。また、本日付けの産経新聞朝刊によれば、いわゆる「田中上奏文」も、存在しない文書だったことを中国側が認めていたことを報じています。この報道が事実であるとすれば、コミンテルンが仕組んだ怪文章であったことが確定されたも同然です。
アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、この「田中上奏文」が原因で親日から排日に転じてしまった、といわれています。この怪文書さえなければ、米国の日本に対する経済圧迫も軍事圧迫も、あるいは無かったかもしれません。もしなければ大東亜戦争も起きていないでしょう。
「張作霖爆殺事件」までもがコミンテルンによる策謀の結果であったことが証明されれば、現在学校教育で行われている侵略史観に基づいた日本の近代史が完全にひっくりかえることになります。
あの東京裁判によって奪われてしまった日本の名誉と誇りを一刻もはやく回復させるため、実証的な歴史研究が今後さらに進められることを切に望みます。