ここで少し、重々しい改革論からはなれて、信長の女性観についてふれてみたい。
信長の正室が、美濃国(現在の岐阜県あたり)の主である斉藤道三の娘、濃姫(のうひめ)であったことは有名である。美濃からきた姫だから濃姫かと思える。またの名を帰蝶(きちょう)ともいう。
多くの史料では、信長が15歳のときに織田家に嫁いだとされているが、その後いつごろまで信長のもとに身を寄せたかは定かでない。
濃姫をめぐっては、さまざまな説があって、詳しいことはわかっていない。
例えば、実際には、信長のもとへは迎えられていないという説、道三がその嫡男の義竜に殺されたとき生母の里(明智家)に送り帰されたという説、あるいは信長に首を刎ねられたという説、まこと諸説賑やかである。
ただ、信長との間には、子供をもうけなかったことは間違いないようだ。
テレビドラマや小説では、本能寺の変で信長が自害してはてたとき、傍らで命を添え遂げたように描いているものもあるが、おそらくあり得まい。
筆者の推測するところ、嫁いだのち間もない時期に国もとに帰されてしまったのではないか。
また、信長はこの濃姫を心から愛していなかったようにも思える。
彼が最も愛した女性は、生駒吉乃(きつの)という側室で、信長よりも一歳か二歳ばかり年上の女性であった。
彼女の実家である生駒家は大和の国(現在の奈良県あたり)藤原家の末流で、河内の国(現在の大阪市あたり)の生駒を発祥の地にしていたことから、その姓を名乗っていたのだろう。
信長の時代には、尾張(現在の名古屋市あたり)・郡村の土豪として定着していた。尾張に来たのは文和年間(1352~1356)のころだった。
吉乃は、尾張・郡村にいる。
以前に嫁いだ夫と死に別れ実家に帰っていたのである。信長は天文19年(1550)17歳の秋、吉乃に会うとすぐさま彼女をお手つきにしたという。
この尾張の郡村は、信長が居住していた清洲城からおよそ30キロメートル離れていたが、信長は、この吉乃に会うため、この長い道のりを僅かなお供だけを従えて足繁く毎日のように通ったらしい。
波濤が岸壁を侵食するようにひたすら命をすり減らし天下布武を追い求めた信長、その結果として、常に内憂外患の渦中にあった彼にとって、この吉乃との密会が、唯一、心休める憩いのオアシスであったにちがいない。
このあたりが、信長という稀代の人物において、拍子抜けするほどに凡庸な人間くささを感じさせるところである。
たとえば信長は母の土田御前に疎まれて育った。土田御前は気性の激しい信長を避け、気おとなしい弟の信行を寵愛した。前述のとおり、政局の路線対立から、信長は弟の信行と7年間に渡る相続争いの死闘を演じることになる。信行のほか、確認できるだけでも4人の親族をも殺した。そして家中をひとつにした。この時期、彼の乾燥しひびわれた心を潤していたのが吉乃だったのであろう。
その吉乃が、はからずも信長よりも先に逝ってしまう。病死であった。
吉乃が世を去ったのち、信長から寵愛された女性は、側室のお鍋(なべ)の方である。
お鍋も、吉乃と同様に後家である。
彼女は最初、近江(現在の滋賀県あたり)の高野城主・小倉右京という男に嫁いだ。右京は信長の政敵であった六角氏の家臣である。右京には先見の目があったようで、親分の敵であるところの信長と誼を通じた。そのため、六角氏によって切腹させられてしまうことになる。さらにはお鍋との間に生んだふたりの男子も幽閉されてしまう。
寡婦(未亡人)となったお鍋は、岐阜に赴き信長を頼った。
その後、信長との間に信吉をもうけることになる。
お鍋という名前は信長がつけたもので、信長には、自分を愛する女性に台所道具の名前をつける癖があった。
それは、性の対象としての女性だけでなく、たとえば吉乃に生ませた自分の娘にも五徳(ごとく)という名前をつけている。