信長の国家ビジョンは、鮮烈である。
それを一言で表現されたものが、あの有名な「天下布武」である。これを解りやすく表現すると次のようになる。
「日本国という天下は、武士が一元的に支配する」
この言葉を理解するためには、信長の生きた中世という時代を把握しなければならない。意外に思われる方もいるかもしれないが、この時代にはいくつもの政治的支配権が存在した。
たとえば、武将や大名以外にも、神社や寺院が領民に対して徴税権をもっていたし、朝廷や公家らもそれらと同様に領土をもち徴税権をもっていた。比叡山延暦寺や一向宗に至っては、僧兵という軍事力までをも有する。
さらに彼らは、「座」といわれる特権商人の商業団体に対しても営業許認可権をもっていた。たとえば、大崎山の離宮八幡宮は、荏胡麻油(えごまあぶら)の製造販売の許認可権をもっていた。離宮八幡宮にお許しを頂いていない商人は、荏胡麻油を造ることも販売することもできなかった。もし販売すれば、潜りの商人として摘発され、「座」の商人たちに締め上げられる。ときには命さえ奪われる。
つまり、「座」とは、独占的営業権を与えられた商人たちのことで、公家や寺社などの権門を本所として仰ぎ、その庇護のもと、商取引の権利を独り占めしていた集団である。座の権益を侵食しようとする者たちを武力で排除する権利を認められていたのである。
それだけではない。公家や寺社は、全国いたるところに関所を設けて、民から通行税を徴収していたのである。関所といっても、古代における鈴鹿の関、不破の関、愛発の関、といった三関のごとき軍事上の防衛拠点ではない。そこを往来する者たちから、「関銭」という通行税を徴収する料金所のようなものである。今日でも、神奈川県の小田原厚木道路を走ると、いくつもの料金所で通行料を支払わされるが、それと同じで、道行くものから通行税を取り立てた。
驚くことに、道路だけではない。なんと河川交通の船からも関銭を徴収していたのである。機内の河川交通の要衝であった淀川には、380箇所もの関所が設けられていたという。
こうした上に、当然ながら大名や国人・地侍たちも徴税権や許認可権をもっていた。
したがって、この時代には、一つの土地に対して大名や小名が税金を課し、同じ土地から公家や寺社も別枠で税金を課した。民の重税感はいかほどばかりか。さらにそれら権門は、商業上の許認可権をもって商業を規制し、いたるところに関所を設けて流通コストを吊り上げていたのである。
このようにして、何重もの支配権が存在し、中世というひとつ時代が形成されていた。
しかし信長は、
「これは間違っている」
天下を治める行政権は武士こそが責任をもって行使すべきである、と考えた。
徴税権や許認可権という行政権を多元的に認めず、武士が一元的に行使する。その武士の棟梁が自分である。それが、信長の言う「天下布武」であった。
さらに信長は、座や関所を撤廃した。
それらが旧習勢力の既得権益となり、あらゆる分野の新規参入を阻んでいたからである。いつの時代でも、新規参入のない分野は必ず衰退する。有名な「楽市楽座」という政策は、今日でいう規制緩和政策であり、新規参入奨励政策である。結果として、信長の領地が広がるにつれ、市場経済圏が広がった。それまで石のように動かなくなっていた中世経済は、信長の画期的な経済政策により、人や商品、お金や情報が自由に往来したため、驚くほどの活況をみせた。
信長の目指した社会というのは、強力な中央政府の下で自由競争が展開される「進歩の社会」であり、国家の安全、治安の維持、基礎的な公共事業には武士が絶対的な責任をもつ、というものであった。
それとは対照的に、徳川家康が追求した社会というのは、競争のない秩序ある身分社会であった。徳川家康の旗印は「欣求浄土 厭離穢土」で、浄土を求め、穢土を嫌う、という意味である。家康のいう浄土とは、競争による進歩や発展よりも安定を重んじた社会であったろう。また、穢土とは、まさに信長の目指した「進歩の社会」であったに違いない。
その典型的な違いとして、二人の道路政策をあげる。
信長は、彼が支配する領内の道路を国道級道路で幅員7メートルとし、県道級道路で幅員6メートルとした。現在の道路行政と比較しても、驚くほどに大胆な道路整備というほかない。人やモノの往来を盛んにしたい、という信長の意気込みが伺える。
家康、あるいは彼が開いた江戸幕府は、終始一貫して、人やモノの往来を必要以上に抑制しようと努めた。たとえば、大井川に橋を架けなかったのは、軍事的理由と言われているがそうではない。橋を架けるということは、人やモノの往来を盛んにさせる。それは、結果として安定した社会に有害である、と考えた。そのため、川を渡る旅人は、常に川越人足さんたちに頼らざるを得なかった。また、橋を架けないことにより、人足さんたちの雇用確保を図った点も見逃せない。
次に商業政策についての違いをみる。
国を開き、商いを盛んにしようとした信長に対し、家康は国を閉じ、商いを疎ましいものと考えた。江戸時代の士農工商という身分階級をみても解るように、商人は農民や職人の下に置かれた。商人はモノを作らず利益だけを貪る不逞の輩とみなされた。
現在でも、利益を追求することが悪行であるかのような考え方が蔓延しているのは、徳川260余年の影響ではあるまいか、とさえ思えてしまうほどである。そのため、官営事業の民営化や民間委託が政治課題になると、いまでもつよい反対意見がお決まりのように必ず登場する。
家康型の安定社会を望むものは、激越な競争から逃れる代償として年々の貧困化と長期的な停滞を覚悟すべきである。
また、信長型の競争社会を望むものは、大いなる進歩と豊かさの代償として競争と淘汰の時代を覚悟すべきである。これらは、どちらが正しいか否かの問題ではない。生き方の違い、というほかない。
ともかくも、信長は、中世の停滞と座の拘束から放たれた楽市(自由経済)を求めた。それを実現する方法を「天下布武」と表現したのである。
因みに、学校教育ではこの天下布武を、
「天下を軍事力(武力)で支配する」
と、教えている。しかし、これは大きな間違いである。
この解釈では、信長に対する理解を決定的に欠き、ひいては日本史に対する誤解をも生んでしまう。こうした点からも、歴史教科書の見直しの必要性を痛感する。
次回は、信長は、いかにして天下布武を進めていったのかについて述べたい・・・
次号につづく