◆はじめに
小栗上野介忠順の菩提寺である東善寺は、群馬県倉渕村の権田にある。彼・小栗上野介は、徳川幕府瓦解寸前の幕末において、ときの大老・井伊直弼の抜擢をうけ、勘定奉行をつとめた人物である。勘定奉行とは、現代ふうにいえば財務大臣にあたる。最後の将軍・徳川慶喜にその職を罷免されてから明治政府に命を搾取されるまでの二ヶ月間、かれはこの菩提寺である東善寺に身をおいた。幕末から明治にかけて偉大な功績をのこしながら、後世の人々にほとんど評価されることなく埋没していった人物はすくなくない。かれはそのもっとも代表的な歴史上の人物といっていい。
私はこのたび、その歴史にうもれてしまった小栗像を、宝物でもさがし出すような思いで掘りおこし、自身の見聞をふかめる意味をもこめて小栗の郷・東善寺を訪ねてみることにした。
以下、雑文ではあるが、小栗をめぐる旅と思索の記録にしばしおつきあい頂ければ、この上ない幸せである。
◆日本近代化の父・小栗上野介
まず、政治家・小栗上野介の実績についてふれたい。
かれにとって華々しい政治デビューは、なんといっても日米修好通商条約批准のための訪米である。この時かれが搭乗した船は、ポウハタン号という。はじめて渡米した幕末の船といえば、わが国では勝海舟の咸臨丸と思われがちだ。しかし、史実はちがう。咸臨丸はこのとき、ポウハタン号の一護衛船にすぎず、勝はその護衛船の艦長である。しかし太平洋を横断中、嵐に遭遇し、小栗のポウハタン号よりも二、三日おくれて米国に漂着した。どちらが偉いか否かは別として、両船にあたえられた名誉と任務を比せば、政治的にも歴史的にもポウハタン号の方がはるかに重かったといわざるをえない。しかし残念ながら、歴史としてのその評価と印象は、ひどく咸臨丸にかたよっている。おそらく洋の東西、時の古今を問わない歴史の常として、ポウハタン号のその評価も勝者の史観によって歴史の闇にほうむり去られてしまったようである。
あるいは当時、世界最新といわれた横須賀製鉄所の建造や、新橋と横浜をつなぐ鉄道建設計画のほか、郵便電信事業の提案、郡県制の提唱、行政改革を前提とした財政再建などなど、現在にも通ずるような改革者・小栗のそれらの功績は数えあげればきりがない。
とくに、このとき小栗が決死の覚悟で建造した横須賀造船所こそわが国の近代化のはじまりといってよく、明治以降に発展したさまざまな産業技術の中には、この造船所から発祥したものも多い。しかし、つぎつぎと思いきった幕政改革を提唱し、また実行した彼には、幕府内外にいる現状を変えたくない勢力からのつよい抵抗がつきまとった。そのため小栗は、同僚や上役たちにけむたく思われ、何度か勘定奉行の任を解された。だが、なんど首になっても、小栗にかわる人材がいないため、結局、かれにお鉢がまわってきてしまう。いつの時代でも、改革者とはつらい仕事だ。
さて、東善寺のある倉渕村は、群馬県の経済的中心地である高崎駅からバスにのっておよそ一時間二十分、地理的にはほとんど長野県の手前である。薩長史観でいうところの逆賊とはいえ、小栗の菩提寺というからにはさぞ大きな寺院にちがいない。と、そんな期待をいだきながらバスで移動したが、到着した自分が見たものは、小栗には失礼だが、意外にも小ぢんまりとした伽藍であった。
小栗が幕府から与えられた総領は二,七〇〇石、これはあくまでも総領で関東近辺に何箇所か分散していた。この東善寺がある権田領は、その総領の一部で、およそ三七〇石にあたる。当時の大名は、一万石で約三〇〇人ほどの家臣団を養っていたから、三七〇石といえば十一人程度の家臣が雇えるほどの少領となる。つまりこの権田領は、いまもさることながら幕末時代においても、ひと気のさみしい田舎町であったことがうかがえる。彼にとって他にもっと暮らしやすい領地がなかったとは思えない。なぜ小栗があえてこの権田領を隠棲の場所にえらんだのか、実に興味深いところだ。
ついでながら、小栗の江戸屋敷は駿河台にあった。小栗家をはじめ徳川家譜代の臣(家康直属の家臣)はみな、家康の死後、その領地である駿河(現・静岡県)をはなれ江戸に移り住んだ。その場所が、現在の神田付近の高台にあったため、以後、その高台を「駿河台」といった。その地名は今ものこる。
やがて境内に入った。寺務所の玄関を開けると、ご住職の奥様らしき方がお出になられた。前もって事情を説明してあったこともあり、懇切丁寧に対応してくださった。ご住職がまだお帰りにならないということなので、しばらく境内を見物しながら待たせて頂くことにした。その境内の片隅には小さな資料館があり、小栗由来の品々が飾られている。資料館といっても、さほど大掛かりなものではなく、なにか手づくりのにおいをつよく感じさせる。数点の展示物の中でも、官軍が小栗を処刑場まで運んだという駕籠がもっとも印象的である。斬首ののち、河原に捨てられた胴体とこの駕籠を近隣の百姓衆がとり戻してきたらしい。また、いくつかの由来品の説明書きには「西軍」という言葉が使われていることに気づいた。「官軍」ではなく「西軍」、小栗の幕臣としての誇りとプライドが一三〇余年を経てもなお、牢固としてこの土地の人々にうけつがれている。
資料館を出ると、その正面には小栗の胸像が凛乎として存在し、供養碑となっている。さらにその後ろには小栗遺愛のつばきが植えられていた。そこから階段をのぼっていくと、小栗の本墓にたどり着く。しかし、小栗忠順の墓と書いてある立て札があるものの、一瞬、ほかを探してしまうほどに目立たぬ墓石であった。その隣には、主君とともに河原で惨殺された家臣三名のお墓も並んでいた。本墓の参拝を済ませ、階段を下りようと思ったとき、遊歩道が目に入った。「恋慕坂」という名の遊歩道であった。本堂まで戻っていけるようであったので足を踏み入れてみた。柔らかな土の感触がなんとも心を落ちつかせるような感じで、小栗もおそらくこの道を歩いたことと思われるが、いったいどんな気持ちで歩いたのだろう。ひにくにもこの遊歩道からは小栗が処刑された烏川の河原が一望でき、その川の流れがなんとも悲愁をさそうようである。
再び寺務所に戻った。ご住職の奥様が本堂へと案内してくれた。おどろくことに、そこにも小栗ゆかりの資料や展示物がことごとくならんでおり、およそ宗教行事をつかさどる空間とは思えなかった。
「住職が帰ってくるまで自由にご覧下さい」
という奥様のお言葉にあまえて、さっそく見学させて頂くことにした。
しばらく見学していると、ちょうど舞台の上手から役者が登場してくるように、ひとりの男性が現れた。よわいは五十くらいの方であろうか。その後ろから再び奥様も登場し、その方を紹介してくれた。
「この方は大の上野介ファンで東京から来た方です。この人にいろいろ教えて頂くといいですよ」
とおっしゃった。この館の常連客のようである。互いの自己紹介を済ませ、小栗についてのご指導を受けた。なんとこの人は葛飾区に住みながら、小栗のためにわざわざこの東善寺に自らのお墓を買い、強引にこの寺の檀家さんになったという。檀家になれば、この寺に来る用事ができ敬する小栗に会う機会も増え、さらには死したのちにも小栗と一緒にいられるということがその理由らしい。人ごとながら、なんともすさまじい。このような熱狂的な支持者をもつ政治家・小栗とは、いったい何者であろうか。
やっとご住職がお戻りになられた。想像していたよりもお若いご住職であられた。最初、
「ご住職さま」
とお呼びしていたところ、
「まあまあ、ホウジョウさんと呼んでくれて結構ですよ」
と言われた。が、意味が解らなかった。『方丈記』の方丈のことであろうか。
その展示館ともいえるご本堂で、こんどはご住職じきじきに小栗の話をしてくれた。東京から若い人が訪ねて来ることはめったにないらしく、よほどに喜んで頂いたようである。そのお話の内容を聞いていくと、史上の小栗に対する不当評価と勝者史観によって裁かれる敗者の無念さという点で、ご住職の冤憤がひしひしとつたわってくる。
◆上野介と株式会社
ここでは詳しい解説は避けるが、ご住職の説明の一部を紹介したい。
「日本で最初に株式会社をつくったのは、誰だかご存知ですか?」
方丈さんが薄笑いを浮かべながら、私に質問した。
おもわず、
「海援隊ですか?」
と答えそうになったが、まるで受験日前日の学生のように私も多少の知識を詰め込んできたので、
「ひょっとして小栗さんですか?」
と、自信を隠しながら答えた。
やがて、方丈さんの雄弁が開始された。
……上野介が株式会社の組織を理解したのは、万延元年(一八六〇年)の遣米使節渡航のときでした。パナマでポウハタン号を降りて、大西洋側へ出るために汽車に乗ったのです。その当時はまだパナマ運河はなかったですから。もちろん、使節団にしてみれば初めての体験です。
「速くて草木の見分けもつかない」
「音がうるさくて、隣と話もできない」
と、驚いたようすが従者の記録に残されています。
でも、上野介の関心はそんなことではなかった。かれは速さや音よりも、鉄道建設の経費とその調達方法を知りたいと思ったのです。
そこで米国の担当官かだれかに、
「総費用は七〇〇万ドル、富裕の者から借り受けた出資金で建設し、利益から出資高に応じて年々割り戻してゆく」
という説明を聞いた。つまり、日本人が初めてコンパニー(株式会社)の組織を具体的に目にし、理解した場面です。
その後、かれは日本最初の株式会社「兵庫商社」を設立しました。
なぜつくったのかというと、当時の日本は開国以来、港を開くたびに外国に利益を奪われ、損失ばかりを被っていました。それは日本の商人たちが個々に取引をするからであって、外国のように商社をつくって取引すれば、商人のみならず必ず国の利益につながると考えたからです。……
ご住職さまのお話しは、留まることがなかった。しかし、何時間聞いていても飽きるこのことのないご講義でもあった。
話しはそれるが、私は現在の教育制度にも「寺子屋」のようなものを今一度取り入れてみてはどうか、と強くおもえたほどである。
「ともかく、日本で最初に株式会社を創設したのは、小栗さんなんです」
というご住職の言葉には、上野介の功績が正しく評価されていない現実に対するやり場のない寂しさがあった。
さて、維新のほとぼりもさめたのち、勝海舟が以下のような趣旨の発言をしている。
「小栗は優秀な人物ではあったが徳川家という枠の範囲にとらわれ過ぎた」
というのである。
勝のこの発言が事実とすれば、このことについては、私にも異論がある。小栗はけっして徳川家中心の国家体制に固執していない。それを証明するこんな一事がある。
まだかろうじて徳川幕府がその政体を保ち得ていたころの小栗である。当時、わが国の主要な貿易品である生糸を優先的に仏国に輸出することを条件にして、かれは仏国からの二四〇万ドル借款を可能にした。次いで、その資金で横須賀製鉄所(造船所)を完成させた。海洋国家に生きなければならない日本が、国防や貿易による商利を考えたとき、自然、海軍力を必するからである。そのときのかれの言葉は、
「たとえ幕府が滅びようとも、あばら屋(日本国)が消えてなくなるわけではない。おなじ売り家でも、この製鉄所のおかげで、土蔵付きの豪華な一項目がつくではないか」
というものであった。
このことは、小栗の未来構想の中に、徳川幕府を超越した次なる国家への受け渡しという思想があったことを鮮烈にさせている。
また、政治家・小栗の粋な一面もみつけた。
小栗の奥さんである道子は、六歳年下であった。彼女は結婚してから彼と生き別れるまでの長い間、子宝に恵まれなかったようである。
「嫁して三年、子なきは去れ」
という言葉のとおり、当時、三年たっても子供ができない場合、離縁することが一般的であった時代にもかかわらず、彼は離縁することなく生涯をともにしたという。小栗の篤実な人柄がしのばれる。
話しはかわって、作家・司馬遼太郎さんのことである。司馬さんの名作のひとつに『街道をゆく』という作品がある。その「三浦半島記」の項では、横須賀に関することが展開されている。横須賀製鉄所建設における小栗の功績は実に大きかったらしく、今の横須賀市は、その製鉄所から徐々に経済発展した都市なのだそうだ。また、司馬さんはこの横須賀に関する部分を「横須賀の話」ではなく「小栗の話」という表題で論じ、明治の近代化に多大な功績をのこした幕末の政治家のひとりに、この小栗をあげている。
しかしながら、この「三浦半島記」をテレビ番組化したところ、なぜかこの横須賀の話の部分はすべてカットされてしまったようである。小栗の真の功績を認めることは、現代に解釈されている横須賀の歴史(勝者の史観)を、その根底から覆してしまうことにつながるからであろうか。もしそうだとすれば、歴史とはまことに恐ろしく、そして残酷なものである。
史実とは、たったひとつのはずなのに、その解釈は人によってさまざまだ。どうしても解明しがたい史実に関しては、個々人の想像力をつなぎ合わせていくしかない。だからこそ、歴史とは未知なるものなのである。古来、人間は、未来という未知なるものと過去や歴史といったもう一方の未知なるものとの狭間で、つねに悩み苦しんでいるといっていい。いま、しきりに騒がれている歴史教科書問題も、このことを思えば議論としてなんとも空しい。この世に正しい歴史など、究極的には存在しないのだから。
◆旅を終えて
今回の訪問で、史上の影に隠されてしまった、いわば「失われた史実」を、丹念に掘りかえしていくという作業の重要性を痛感した。このたび、なにかとご高配を頂いた東善寺ご住職には、心より感謝を申し上げたい。また、小栗にとってこの稿が、多少なりとも雪冤となってくれたら、とおもったりもした。
東京の品川区には、歴史の勝者である岩倉具視のお墓が今もあるらしい。しかし近年、訪れる人は乏しく、墓碑のまわりには雑草が生い茂り、見るも無残なさまであるという。それと比してはいけないが、小栗には東善寺という歴史ある立派な菩提寺が存在し、こまめにお墓がお手いれされ、いまでも多くの人々に敬愛されている。歴史の敗者は、人生の敗者とは限らないことを上野介は教えてくれたようである。
いつの時代でも、その政治家の真の値打ちというものは、後世の人々による丹念な歴史掘りによって定められているのかもしれない。また、そう願いたい。