◆はじめての定例会、はじめての一般質問!!
暑さ厳しき折柄、皆様のご自愛をお祈り申し上げます。
さて、四月の当選以来、はじめて臨んだ川崎市議会定例会(六月会)が去る七月に閉会いたしました。
この定例会の冒頭、それまで市政の懸案となっていた「市営地下鉄問題」について、阿部市長から一つの決断がくだされました。
いわゆる市営地下鉄事業は、新百合ヶ丘駅から元住吉を経て川崎駅までおよそ二十二kmを結ぶ路線計画です。川崎を南北に縦貫する交通網として期待され、国土交通省から初期整備区間の事業認可をも取得し、本年度からの着工が予定されていましたが、莫大な建設費あるいは市財政の負担を伴う大事業ということで、その着工の是非をめぐって市政の懸案事項となっていました。
市長の決断とは、「五年程度の着工延期」というものです。
私は、これまで、着工の是非はあくまでも採算性によって判断されるべきであることをつよく主張してまいりました。
五年後には、再びこの問題が大きく議論されることが予想されますが、今後とも、財政事情や経済環境などをふまえ、事業としての採算点をしっかりと見極めていくことが必要だと考えます。
また、私は、今定例会においてはじめての一般質問に立ち、市長のほか行政の理事者に対し様々な質問をさせて頂きました。
とくにこれまで、公立学校の抜本的な改革をつよく訴えてきましたので、主に教育長に対し、その認識と姿勢をただすべく質問しました。
しかし残念ながら、私の質問に対する教育長の答弁は、ただひたすら役人の用意した文書を棒読みするのみで、現状に対する危機感にも乏しく、今後にむけての改革心をも感じることすらできないものでありました。
その議事録を掲載いたしましたので、ご一読頂ければ幸いです。
◆「老」を尊ぶ社会の再構築を
最近、痛ましい事件が相次いでいる。
中学生が幼児を簡単に殺害することも、もはや稀でなくなりつつある。あるいは、人間関係に疲れてバスジャックする少年まであらわれた。人間関係に疲れて罪を犯すことが許されるなら、世の大人のほとんどは犯罪者になってしまうであろう。
しかし、少年犯罪が急激に増えているわけでないことを断っておきたい。統計をみても、少年犯罪はむしろ減っている。無責任な評論家たちは、少年犯罪のニュースが何度かつづくと、いかにも少年犯罪が統計的に増えているかのようなコメントを述べているが、決してそうではない。正確な事実を認識しなければ正しい対策はうてないので、ここでは正確に論じたい。ただ、少年犯罪が凶悪化していることは確かなようである。むろん、子どもだけでなく大人による犯罪にも驚かされることも多い。
犯罪だけではない。
昨今、子どもや若者の高齢者に対する態度には、いたわりや思いやりに欠けるものも多いのではないか。(もちろん、私も含めてである)
よくいわれるように、お年寄りに席を譲らない若者が多いのはとくに新しい現象ではない。とにかく、老人を尊ぶ精神にあまりにも乏しい若者が多いように思えてならない。
何にもまして、当の大人自身が年を重ねることを不名誉にさえ思っている場合もあるから、厄介である。
大げさにいえば、これは大きな社会問題でもある。つまり、日本社会そのものが「老」を尊ばなくなったからだ。
古来、日本社会は「老いる」を尊んできた。
たとえば、江戸時代には、相撲界が今もそうであるように、偉い人を「年寄り」といった。幕府の要職をみても、偉い役職には「老」という文字がつく。大臣クラスは「老中」といわれたし、もっと偉くなると「大老」となり、大奥では23歳の女性でも「老女」と呼ばれた。秀吉時代の宇喜多秀家は、27歳で「大老」と呼ばれた。
しかし、現代の日本社会では「老」や「古」は卑しいという概念が根付いてしまい、「新」や「改」という文字をより好むようになってしまった。政治の世界ではその傾向が顕著で、例えばここ数年、政党名に「新」がつくものが多かったのは周知の事実である。
ここで再び「老」を尊ぶ社会をとり戻すべきである。老を尊ばない社会は必ず崩壊する。アメリカ社会はそれに気づき、核家族社会から普系家族(3世代同居家族)社会へと再び戻りつつある。老若がともに一つ屋根の下に暮らすことにより、「若」は「老」へのいたわりや思いやりを体感していくという思想があるのではないか。日本社会は核家族化をとおりこし、ひとりで生きていくことを望み結婚しない若者も多くなってきた。それはもはや家族とはいえない。
経済成長著しい中国もまた、核家族化が進んでいる。近い将来、中国社会もアメリカや日本の二の舞を踏むのかもしれない。
家族の再生なくして、社会の再生はない。