以下の二つの図をご覧ください。(クリックすると拡大されます)
まず上の図は、昭和42~44年の大気汚染濃度(SO2)の推移を都市ごとに比較したものです。SO2とは二酸化硫黄のことで、工場がその主な排出源と言われてきました。
昭和42年の段階においては、川崎市の汚染濃度は他都市に比べて最も高くなっておりますが、昭和42年に『公害対策基本法』、昭和43年に『大気汚染防止法』がそれぞれ制定され、各企業による環境対策が講じられるに至って川崎市の汚染濃度は改善に向かいました。汚染濃度の改善は法律の制定により図られたのであって、いわゆる「革新市政」が川崎の公害を克服したというのは虚構です。
昭和44年には環境基準をやや上回っているものの、川崎市の汚染濃度は既に他都市並みに改善されていることがわかります。他都市と比較すると、川崎市はお隣の横浜市と同じ水準で、東京都や大阪市よりも下回っています。
そこで不思議に思うのは、横浜市や大阪市は「公害のまち」などと呼称されてこなかったのに、なぜ川崎市は「公害のまち」と呼称されてきたのか、ということです。
下の図は、平成16年に川崎市が行った「他都市の市民から見た川崎のイメージ調査」です。
京浜工業地帯のイメージから、さすがに「産業のまち」がダントツですが、2番目には「公害のまち」がきます。以来、なぜかこれと同様の調査は行われていないのですが、おそらく現在でもほとんど同じ調査結果がでるのではないでしょうか。
日々、川崎に住んでいる人々の圧倒的多数は、現在の川崎が「公害のまち」であるという実感をもっていません。にもかかわらず、他都市の市民から見ると川崎は未だ「公害のまち」なのです。昭和44年の段階で、既に汚染濃度は他都市並みに改善されていたにも関わらずです。
このことこそが、川崎の発展を阻んできた根源的な問題ではないでしょうか。そこには根深い問題があるのですが、これを克服することが、現在の川崎市に課せられた最重要課題であると考えます。